名古屋クラブの始まり

1949年(昭和24年)7月5日、日本ITCトーストミストレスクラブが認証された。デュモント夫人、パッセール夫人とマッキー夫人によって創設された。初代会長はエリックソン夫人であった。会員はすべて米国空軍将校の夫人であったが、その目的は将来は全て日本人の会員にすることであった。

当時、名古屋市には米軍第5空軍司令部が駐屯していて、進駐軍の軍政部の商務官であったクラーク ジョージフ夫人により、日本婦人にも国際トーストミストレスクラブズに参加するように呼びかけがあった。戦後初めての総選挙で婦人参政権が実現し(1946/4/10)39人もの女性代議士が誕生するという時代で、女性にとっては戦後の曙であった。日本の婦人達も今後は社会への進出や、地域活動に参加の機会も多くなることが予想されるし、日米の親交を計りながら民主的なリーダーシップを学んで貰いたいとの主旨であった。

しかし日本は未だ戦後の整理ができていず、このような国際的組織への加入には政府の許可が必要とされていた。種々の手続きを経て、1951年に文部省の許可がおりた。これは平和条約発行の前年のことであった。

その年の9月に役員就任式典が丸栄ホテルで開催された。役員は全て日本人が就任した。この時の会長は山本三重子であった。会員はアメリカ人6名、日本人22名で構成された。日本人の会員は行政、財界、教育関係者の夫人達、アメリカ人は空軍司令部の高官の夫人達であった。日本の歴史上、このような国際的組織への加入を許されたのは初めてのことであり、50名もの報道関係者がこの式典を取材するために集まった。
ジョージ夫妻と共に
その後、会合は毎月2回、通訳をおいてバイリンガルで開かれた。トーストミストレスハンドブックが増田信夫氏により翻訳されたが、内容は全てが日本婦人のそれまでの実生活とかけ離れた目新しいことばかりなので、アメリカ夫人達によって一つ一つ指導され勉強した。

この会合での会話、スピーチ、分析聴取法、円卓討議やリーダーシップの訓練、またアメリカ会員たちの人前での表情豊かな自然なスピーチなど、コミュニケーションの技術をお互いに熱心に訓練し、評価にあたる人は適切な評価をし、またそれを素直に受け入れ向上への努力をする様子は、目を見張るばかりであった。当時の日本婦人にとって、このようなユニークな会合に出て勉強することはたいへんな刺激であり、毎回が画期的な挑戦で、緊張と興奮の連続であった。そして、アメリカ人の会員の指導により会の運営法や議事法等も一生懸命に勉強をした。

会合はアメリカ会員の自宅で行ったり、お正月やお節句などの季節には日本会員の自宅で行い、文化の交流も計った。また、役員交代には会員の夫君たちを招待し、トピックスなどに参加して貰い、トーストミストレスクラブへの理解を深めた。
名古屋クラブ初期会合風景
以後16年間、関西に阪神クラブが設立されるまで、名古屋クラブは日本唯一のクラブとして、会員はお互いに助け合い、よりよいコミュニケーションを学び、ITCの方針に忠実に従い自己向上に励んだ。

今にして思えば、この一粒の種は会員たちの緊密な共同作業と友情の中での学習によってはぐくまれ、現在の日本リージョンの飛躍的発展に結実したのである。ITCの訓練は、同時に他にも影響を及ぼす事であり、目まぐるしい変化をしつつある世界の中においても大きな役割を演じ続けて行くであろう。


ITC-J日本リージョン ITC-JカウンスルNo.1